2015年4月のメモ
相変わらずテーマがブレブレで困るのですが、何かをしていないと変な不安感に襲われるのでブログは昔のように書こうと1年ぶりに。
■家族が2名いなくなりました。
4月1日;祖母 他界、4月10日;後を追うように父親 他界。
僕が親族の目の前で初めてスピーチすることになったのは、結婚式や何かの受賞式の様
な、輝かしいものではなく、父親の葬儀でした。
4月3日身内で密やかに葬儀をあげることになった祖母の式。この時代には珍しく、子供を沢山つくるいとこたちの参加で、小さい子たちが駆け回るなんとも、気の紛れる(不謹慎な?)葬儀になる。1週間前にいきなり延髄梗塞で倒れる父、生死の境を彷徨いながらも、僕らの声に反応する父。祖母のことなんて報告できるはずもなく、人工呼吸気で、苦しそうな父をみて、立ち尽くす自分。こんな時、なんて言えば良いんだろうとか考えていたら面会時間終了。
この時点で、「ヒロは私の自慢の孫よ。」といつも言ってくれていた祖母の他界もあり、頭真っ白よ。
4月10日。父、他界の連絡を受けて、翌朝一の便に飛びなり、上海→東京→茨城へ。
帰りの電車、父との思い出の記憶を掘り起こしながら、あまり親子らしい会話しなかったなぁと。
精神病であった父、まともに会話にならねーよ。
と思いつつ、いつか色々わかる日が来るのかとか、おかんに怒られながらも何だかんだ
やってるんでしょ。とか思ってたけど。あまりにも急過ぎて呆気に取られた。
■親父の遺品整理
日本滞在が限られているので、親父の遺品の整理、財産関係の整理・判断。1週間でほぼ
済ませるという。。故人のモノを他界してすぐに処分するって、、不謹慎かもなと思いつつ、いつも水戸にいれないので、割とドライに整理をした。
驚くことはたくさんあった。
読んでた本が被りすぎ。聞いてた音楽被りすぎ。
デールカーネギー、村上龍やらビートルズやら、これメッチャいいよね!と酒飲みながら語れるもんばっかり。母親じゃなくて、妹でもなくて、自分の手で色々整理できて良かった。
あまり思い出がないと思っていたけれど、繋がりができた気がした。
同時に後悔が初めて生まれる瞬間だった。
■義理の伯父の涙
話はもどってスピーチの話。頭真っ白状態であったため、僕のスピーチは至ってシンプル。
祖母のこともあり、可哀想だなと思っている方も中にはいらっしゃったと思う。
それはそれで本当にありがたいお心遣いだ。
スピーチの中にもあったが、水戸に残る母親を頼みます。と
祖母の死と親父の死、同じ長男坊で早くに両親を無くした義理の伯父が
僕をそばでよく見てくれた、助けてくれた。その彼が、シンプルなスピーチの中で、俺と親父の関係性に胸を痛めたようで、嗚咽を漏らして泣いてくれた。
前述の通り、父親とはあまり会話をしなかったので、
でもその伯父が泣き始め、静まりかえる場の中で、僕の中で何故か生まれたのは焦りだった。
僕は残された母親や妹と、ちゃんとコミュニケーションできてるのかなと。普通にあるべき家族の姿をあまりに無視し続けている気がして、なんで俺生きてるんだっけ?必死こいて上海にいるんだっけ?というレベルで猛省の気持ちが生まれた。
お恥ずかしい限り、海外の人が家族をものすごく大事にする気持ちが初めてわかった。
どんだけガキなんでしょ私。。
■30代は海外で
基本的に変えたくない方針である。
ただ、環境が変わった。というか気づかされた。自分本位すぎる全てが。
家族のために生きるって普通なんだと初めて気づいたのでした。
「俺人間だったわ、ぼーっとしてた。」
海外での仕事の他に、家族のいる水戸で何かを始めたい。
という気持ちも芽生えている。「ミトアトリエ」2年後始動に移したいなと。